屋号の由来について
屋号の【丹】と【青】とは、古来より日本的な色彩の代名詞。
飛鳥時代の傑作、法隆寺の玉虫厨子の板絵は黒塗地に【丹】と【青】をおく事によって神秘的な美しさを見せると言われていました。
江戸時代初期より浪速伏見町で代々続く、羽二重(はぶたえ)などの白生地問屋の升屋の八代目升屋仁兵衛(改名後:初代堀仁兵衛)は、その二つの【丹】【青】と、また、読み方が同じである【丹精】に通じ、「丹精を尽くして」という意味も含め 1874年(明治7年)に『丹青堂』という看板を掲げました。
以来、【丹】【青】の皆が憧れる色鮮やかで美しい和趣品(和の趣ある品)と、それらを生み出す日本画用品・書道用品・軸装・額装を【丹精】尽くして創作・販売していく事を目指しております。
企業沿革
江戸時代初期:羽二重(はぶたえ)等の白生地を扱う問屋の『升屋』を営む。

升が潤うという事で潤屋となっている。
1874年(明治7年):八代目の升屋仁兵衛が、趣味で集めていた美しい物やそれを生み出す書画材料を商いとして、東区唐物町に丹青堂の看板を掲げる。

1925年(大正14年):二代目堀久吉の時代では、大阪きっての繁華街・戎橋に支店を開設。
当時では珍しかったナショナル・レジスターをいち早く導入し、経営の近代化合理化に取り組む。
その二代目堀久吉の時代、明治から大正にかけては「画会」が盛んに開かれた。
箕面、嵐山の行楽地に客を集め、有名画家を招いて即席で絵を書かせて売るという催しである。
久吉は、こうした画会を通じて日本最後の文人と言われる富岡鉄斎や福田平八郎と親しくなり、
得意先を関東にまで広げた。


鉄斎外史の雅号が見受けられる
関東大震災の時にはその東京の得意先に対する売掛金を帳消しにする。
三代目堀剛治の時代には事業も順調に拡大し、上海事変の直前には上海に出張所を開設。 中国文具珍玩の輸入を始めたところ、書道用品に世上の人気が集まった。
1937年(昭和12年)には、 今の本店所在地に支店を設け、和紙加工品も充実させ現在の形に近い商売となる。 順調に来ていたが、やがて突入した第二次大戦で灰燼に帰した。
1946年(昭和21年)バラック建ての本店から再建が始まった。
1949年(昭和24年)法人化するとともに、現在の本社ビルの土地に五階建ての店舗兼事務所ビルを建設。
1960年(昭和35年)に阪神店を開店。 その店を皮切りに梅田地下店、虹のまち店を開店。
1966年(昭和41年)には名古屋中日ビル店、1974年(昭和49年)には東京(新宿店・八重洲地下店)に進出。

また需要を育て開拓する意味もあり、戦後すぐに文化教室を開設、 1965年(昭和40年)ごろからは新聞社と提携した教室運営も進められてきた。


協力頂いていた村上三島さんの書
2010年(平成22年)本店改築
2010年(平成22年)大阪商いグランプリで店舗部門で優秀賞を頂く。



主な事業内容
- 書道用品・日本画画材の創作、販売(通販を含む)
- 額縁・掛軸の仕立て
- 干支物・扇子等の季節商品の創作、販売
- 和趣品(和の趣ある品)の創作・販売
- 書道作品・絵画作品の販売
- 書籍の販売
主な取引先(順不同)
- (財)毎日新聞大阪社会事業団
- 日本放送協会
- (株)東海テレビ放送
- 中日新聞社
- 宝塚造形芸術大学
- 名古屋造形芸術大学
- (株)NHK文化センター
- 朝日カルチャーセンター
- 産経学園
- 中日文化センター
- (株)読売・日本テレビ文化センター
- ヨークカルチャーセンター