17文字の文学・俳句の日
俳句の日について
8月19日は、俳句の日です。
わずか17文字で表現される文学である俳句は、今や "Haiku" として国際的にも知名度が高く、その愛好者を増やし続けています。
また、描かれる対象を簡潔に表現する俳画にも、俳句は付き物です。
丹青堂では8月19日の俳句の日にちなみ、俳句・俳画に関連する商品をいろいろとご用意しました。
俳聖・松尾芭蕉を気取り、旅行先で矢立を片手に一句詠んでみてはいかがでしょうか。

俳画については、丹青人語「俳画を描く」もご参照ください。
俳句・俳画関連の商品
斑竹象牙飾竹壷

斑竹に象牙を組み合わせた矢立です。
矢立は古くからある携帯用筆記具で、紀行文「おくのほそ道」に「これを矢立の初めとして」との記述があることから、松尾芭蕉も愛用していたと思われます。
懐中矢立箱セット

伸縮自在な小筆と専用の箱、黒い携帯用ケースがセットになった、硯風の矢立です。
箱の中にある白い綿に墨液を染み込ませて使用します。
掌に収まるコンパクトさです。
黒谷和紙俳句帳

京都府指定無形文化財の黒谷和紙を使用した俳句帳です。
自然に触れながら詠んだ俳句を書き込んでください。
矢立とセットでの使用をお勧めします。
歌短冊5色セット

展覧会などで俳句作品を展示する際に使用する歌短冊です。
染めた地に金銀切箔砂子をちりばめ、銀泥引きの加工が施された華やかな短冊です。
通常の仮名書道作品用にも使用できます。
手描き寸松庵色紙

手描きで絵が描かれてた寸松庵色紙です。
丹青堂オリジナルで、絵柄は季節によりいろいろと変わります。
寸松庵色紙硯屏は、別売りとなります。
俳画用青墨「土筆」

俳画家・藪本積穂好みの青墨です。
表には藪本氏が揮毫した「土筆」の文字、裏には土筆の絵が描かれています。
老舗の墨メーカーである古梅園製で、ほかに茶墨もあります。
木版巻紙「青竹」

俳画家・赤松柳史の作品を元にして作られた木版巻紙(同柄5枚入り)です。
絵柄はほかにも桜・撫子・紅葉などがあり、季節に合わせて使用することができます。
また、通年使用できるダルマ柄もあります。
「俳句の日」についての補足
俳句の日の由来
夏休み中の子供たちに俳句に親しんでもらおうという観点から、正岡子規研究家で京都教育大学教授(現・名誉教授)の坪内稔典氏が「はいく(819)」の語呂合わせで8月19日を俳句の日として提唱し、制定されました。
また、坪内稔典氏が代表を務める俳句グループ「船団の会」のホームページ「e船団)」にある「週刊:新季語拾遺」中の「2001年8月19日 ハイクの日(はいくのひ、haikunohi)」に、俳句の日の提唱に関する記述があります。
俳句について
俳句はもともと俳諧発句(はいかいほっく)というものでした。
発句とは俳諧連歌の第一句めのことで、五・七・五のリズムをもつこの発句を受けて、七・七のリズムの脇句(わきく)と呼ばれる第二句め以降が続けて詠まれたのですが、この発句を独立させて完成度を高めたのが俳聖・松尾芭蕉でした。
その流れはやがて正岡子規に受け継がれ、俳諧発句が俳句と呼ばれるようになりました。
松尾芭蕉について
おくのほそ道(奥の細道)
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
松尾芭蕉は生涯にいくつかの紀行文を書き残しましたが、なかでも「おくのほそ道」は、国語の教科書でも採用されるほどの代表作です。
「行春や鳥啼魚の目は泪」を詠み、これを矢立の初め(旅の始まり)として千住(現・東京都)を出発し、東北・北陸を経たのちに、大垣(現・岐阜県)到着をもって旅の終わりとしましたが、俳人らしく多くの俳句が含まれています。
「夏草や兵どもが夢のあと」、「閑さや岩にしみ入蝉の声」、「五月雨をあつめて早し最上川」、「荒海や佐渡によこたふ天の河」などは、紀行文「おくのほそ道」から独立して聞かれることも珍しくはない俳句の数々です。
終の地
古人も多く旅に死せるあり
松尾芭蕉は旅から旅へと繰り返し全国各地を回りましたが、その最期もまた彼らしく客死でした。
芭蕉51歳のとき、到着した大坂(現・大阪府)の地で発病。
気丈にもいくつかの句会に参加したものの体調は徐々に悪化し、著名な句「秋深き隣は何をする人ぞ」を詠んだ後、ついに床から立ち上がることができなくなりました。
漂泊の思ひやま」なかった芭蕉は病床にて最後の句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ数日後、ついに帰らぬ人となりました。
1694年(元禄7年)10月12日のことでした。

現在、芭蕉の終の地の辺りには「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト傳」と刻まれた石碑が置かれています。
大阪市中央区にある御堂筋の緑地帯にある石碑がそうです。
また、石碑のすぐ近くにある東本願寺難波別院(南御堂)の「獅子吼園」という庭園には、芭蕉の葉に守られるように置かれた句碑「旅に病でゆめは枯野をかけまはる」があります。
俳画について
俳画は俳諧ものの草画(草画とは、楷書体に対する草書体のように、簡略化した画のこと)とも呼ばれ、江戸時代の俳人でもあった与謝蕪村(よさ ぶそん)により確立されたとされている、絵画の分野のひとつです。
中国には水墨画のなかに南宗画(なんしゅうが)と呼ばれる分野があり、やがて日本に輸入されました。
南宗画は、描かれた画に賛(さん)と呼ばれる言葉(漢詩など)を書き込むのが特徴でした。「自画自賛」の賛は、この賛のことです。
日本では南宗画が南画(なんが)として普及していきましたが、蕪村は池大雅(いけのたいが)らと並び南画の名手でもありました。
蕪村は賛として自作の句を書き、やがてこれを俳諧ものの草画と呼び始めたことが、俳画が誕生した概略といえるでしょう。
ただし、俳画風の作品はそれより以前の時代にも見られ、その成り立ちについては、まだまだ研究の余地が残されています。
俳画はその後も朽ちることなく確立された分野として存在し続け、やがて俳人の赤松柳史(あかまつ りゅうし)は柳史俳画と呼ばれる独自の境地を開拓しました。
彼は、俳画にとって空白の美が特に尊ばれることを説き、「へたでよい、稚拙でよい」とも語りました。
また、俳画だけではなく俳句の指導にも力を入れ、俳句俳画誌「砂丘」を主宰しました。
赤松柳史に師事し俳画を学んだ藪本積穂(やぶもと せきほ)は俳画を描き続け、遂には赤松柳史と異なる独自の作風の積穂俳画を完成させました。
1991年(平成3年)には全日本積穂俳画協会を設立し、俳画の普及・指導活動に努めました。
与謝蕪村が確立した俳画は、こうして現代にまで脈々と発展し続けています。

